【みんな生きている】市民の党編
(以下は、市民の党について、『東アジア黙示録』からの引用です)
「私を人殺しなどと非難すれば、お前が地獄に落ちるだろう」
被告席に座った老女は、検察側に向かって延々と呪詛の言葉を吐き続けた。2009年2月、大虐殺を行なったポル・ポト政権の元幹部を裁くカンボジア特別法廷のワンシーンだ。
この禍々しい雰囲気を漂わせる老女は「人道に対する罪」で起訴されたイエン・チリト(Ieng-Thirith)。今年6月末に開かれた初公判にも姿を現したばかりである。
7月17日付の『産経新聞』は、市民の党代表・酒井 剛が主筆を務める新聞にイエン・チリトがメッセージを寄せていたと報じた。昭和58年のことである。新聞は『新生』という名称で、「市民の党」の事実上の機関紙だった。
酒井剛がマオイズムの信奉者で、クメール・ルージュ(ポル・ポト派)にもシンパシーを抱いていたとの情報はすでに出ていた。だが、ここまで深い繋がりがあったことは知られていなかった。
このイエン・チリトはクメール・ルージュの序列第3位であるイエン・サリの妻で、報道では元社会問題相と表現される。しかし、実際はジェノサイドを指揮した主要人物なのだ。
『産経新聞』の名記者でインドシナ問題の第一人者でもあった故・近藤紘一さんは、クメール・ルージュに捕らわれたカンボジア前国王の証言をもとにこう記している。
「後のシアヌーク殿下の発言では、『赤いクメール』内部の実権はすべてポル・ポト首相夫妻、イエン・サリ副首相夫妻に集中し、この“四人組”以外は、何の政策決定にもあずかれなかったという」
(近藤紘一著『戦火と混迷の日々』《文春文庫》42頁)
国民の4人に1人、約200万人を短期間で虐殺したという20世紀有数の狂気…
それを支持していたのが酒井 剛だったのだ。さらに、それは個人を越え、党と党の関係にも及んでいた。
【ゲリラ拠点を訪問】
「そしてMPDも酒井 剛が作ったもので、開会の大会には、なんとポル・ポト派からメッセージが来るなど公安にマークされている団体です」
衆議院予算委で古屋圭司議員はそう指摘した。『産経新聞』の情報と同一だ。
具体的には昭和58年5月、酒井 剛が事務局長に就任した「MPD」結成大会にイエン・チリトがメッセージを寄せたのである。
「MPD」は「市民の党」と表裏一体の政治組織。「市民の党」が過去にクメール・ルージュと連携していたら…
また、昭和57年4月発行の機関紙『新生』には酒井 剛がクメール・ルージュのゲリラ根拠地を訪問した記事が掲載されていることもわかった。実際に現地を訪れて交流を重ねていたのである。
1975年4月から始まったクメール・ルージュによる凄惨な大虐殺は、リアルタイムでは世界に伝わらなかった。ベトナム軍が1979年(昭和54年)に侵攻するまで実態は不明瞭だったのだ。
酒井 剛が訪れたのは、各国の共産主義者もクメール・ルージュを嫌悪し、一斉に批判し始めた頃だった。世界の潮流に抗うポル・ポト派支持。この事実は酒井 剛が極左ですらないことを物語っている。
クメール・ルージュが政権を追われ、大虐殺が暴かれても強く支持し続けたのが中共(中国共産党)だった。武器とカネを提供してジェノサイドを補佐したのだ。
当時の酒井の行動には、中共の影もちらつく。
【「よど号」グループ支援を打ち出す酒井 剛】
「チョソンに来てから、これまでの18年間は自己を革命化する日々だった」
「市民の党」の機関紙『新生』に「よど号」犯のリーダーで森 大志の父親・田宮高麿が寄稿していた事実も判明した。『産経新聞』によると掲載は昭和63年で、田宮が北朝鮮から文章を送ったという。
加えて『新生』は、元赤軍派トップ・塩見孝也の声明等を度々掲載。感謝の一文が寄せられたケースも確認されている。塩見は田宮の上官で、もうひとりの「よど号」犯と呼ばれる人物だ。
「出馬を持ちかけたのは事実で、若い人に頑張って欲しいと思った」
森 大志の三鷹市議選擁立について、酒井 剛は「若い候補者」として白羽の矢を立てたかのように語る。だが、田宮高麿と森 順子の息子という素性が重要だったことは明らかだ。
酒井 剛は20年以上前から機関紙を通して「よど号」グループへの支援を公然と打ち出していたのである。
※「親北勢力は胸に手を当てて考えて欲しい。もし、あなたの子供たちが食べ物に飢えて栄養失調になり、骨だけの痩せ細った体で勉強を諦め、市場のゴミ捨て場を漁っていたら、どんな気持ちになるだろうか。そうせざるを得ない社会に憧れを持つことなど出来るだろうか」
(脱北者Aさん。脱北者の手記集より)
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